暇と退屈の倫理学 國分功一郎
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2021.1.28
ggkkiwat.icon表紙の「何をしてもいいのに,何もすることがない」というのが,すごく今の自分に刺さる気がする.自分を「表現する」という情熱が自分にないこと,芸術家に憧れるもその資質がないことに,少し落胆している.でも自分はそうなれるとも思っている.その答えがこの本で見つかればいいなと思い,読む.
ウサギ狩りをするのはウサギが欲しいわけではない.
その場合,対象はウサギ,原因は暇潰しにある.
人間は苦しみを求める.その中で生き延びることが、生である 広い関心を持つようにし、熱意のもてる対象を見つける
熱意さえ持てれば,それでいいのか?不幸への憧れを生む可能性がある.
退屈が人々の悩みとなったのはロマン主義のせいだ。だから捨て去れ。 パスカルの退屈をロマン主義的退屈で全て説明できない
人類の肉体的・心理的・社会的能力は遊動生活にこそ適している. 遊動生活の負荷を心地よく感じていたのでは.
定住していても少量生産をしてないことが多い(安定的に食糧生産できたから定住したというのは定住中心主義に強く拘束されている) 「定住革命」はトイレやゴミなどの点において,定住者がその人生において反復しなければならない.
不断のモデルチェンジで退屈させてはいけない,という産業構造.
浪費・・必要を超えてものを受け取ること.満足するから,どこかでストップする.
消費・・ものの観念や意味を消費する.
浪費できる社会が豊かな社会である.
自分自身を「疎外」して,自分で自分を追い詰めるサイクルを回している 疎外の処方箋として本来性が登場するのだよ.
ggkkiwat.iconうわ,すげえ自分に刺さった.個性的である,ということを消費していたかもしれない.
退屈とは
時間による「引き止め」
環世界を批判,私たちはある物をある物そのものとして受け取ることができる.動物にはできない. しかしあらゆる生物には環世界の間を移動する能力があるのではないか. 否定とそれを乗り越えるような運動の全体を「弁証法」と総称した.Byヘーゲル 人間の歴史は,何らかの目的に向かって突き進むプロセスだとする
歴史が終わると,人間は動物に回帰していく.アメリカは階級のない社会を実現し,歴史は”終わっている” ハラキリ,特攻,
人間は皆日本人になる.
暇と退屈の倫理学 國分功一郎.icon「理想主義すぎやせんか?あと壮大な勘違いだよ.p317」
人間であるとは退屈に向き合って生きることを意味する. 贅沢さを取り戻そう
物を受け取れるようになろう.
「物を受け取る」とは,「物を楽しむこと」
衣食住を楽しむこと,芸術や芸能や娯楽を楽しむこと
日常的な楽しみに,より深い享受の可能性がある
教育はその架け橋の一つ
「民衆の芸術」,その訓練が日常的に行うことができる
人間であることを楽しむこと
楽しむことは思考することにつながる
思考する時,環世界移動能力は著しく下がる
現実は刻々と変わっていて環世界は再創造している.
ggkkiwat.icon動物になること,の文脈が理解できなかったのでもう一度読む必要ありそう.